第7回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
    作文部門最優秀賞受賞作品

    十円玉の戒め        

                                   最優秀賞   鹿住 敏子

「これ落としたよ」と声を掛けられて振り返る。
 同じクラスの女の子、すみれさんの手のひらの上には、十円玉がひとつ載っている。
 「ううん、ちがう。私は落としていない」すぐに否定する。
 すると、もう一度「としこさんが落としたよ」と強く言われる。そんなはずはないのにと思いながらも、結局その十円玉を受け取ってしまう。この時、心のどこかに「得した」と思う、弱くてずるい自分がいたことは否めない。

 十円玉を自分のポケットにしまった。途端に、私の足元でしゃがんで洋服をたたんでいたアキ子さんが、いきなり立ち上がり、そばに詰め寄ってきた。外遊びに出るため、上着を脱いでたたんでいたのだ。
 「その十円玉は私のです。あなたは私の十円玉を盗みましたね」と強い口調で責められる。何がおこったのか理解できずに、私の頭は真っ白になる。
 「今、洋服をたたむあいだ、そばに置いておいた十円玉を、あなたはとりましたね」ともう一度、睨みつけられる。やっと、状況が理解できてきた。アキ子さんが洋服をたたむあいだ、そばに置いた十円玉。その時、たまたまそこを通りがかった私が落としたものと勘違いしたすみれさんが、それを拾って私に渡してくれたのだ。
 小学校三年生の春のことだった。
 「そうか、アキ子さんの十円玉だったのか。ごめんね」と言ってその場で返せば、それで済んだはずのささいな出来事だったのに……。
 それなのに、私の口から飛び出したのは、自分でも驚いてしまうような最悪の嘘だ。
 「これは、朝、私がお父さんからもらってきた十円玉なんだ」
 なぜ、そんな嘘を言ってしまったのだろう。後から何度も何度も、深い後悔の念とともに考えた。
 弁解がましく言えば、いきなり「盗んだ、とった」ということばを突き付けられて、怖くなってしまったのかもしれない。
 私の父は小学校の教師をしていた。
 幼稚園の頃に、父が私たち姉弟三人に、おみやげに買ってきてくれたチョコレートが、父の机の引き出しに入っていた。それを父にことわりなく食べてしまった私は、何時間も居間の片隅に立たされた。
 「人の物をとるのはいけない」と、それほど厳しく躾けられたはずなのに……。
 今、大人になってから振り返ると、だからこそ誤った過剰な反応をしてしまったのかもしれないが……。

 それからの私の小学校生活は、思い出すのも嫌なくらいに悲惨なものになってしまった。
 アキ子さんと仲良しの三人組からは面と向かって「どろぼう、どろぼう」と何度も言われ続けた。そんなことにはことさら厳しい両親にも言えず、ただひたすら、時間の過ぎるのを待った。
 いろいろなことが不安になり、ちょっとしたことでよく泣いた。
 秋田の村の小さな小学校なので、二十四人で一クラスだけのまま六年生の卒業まで一緒だ。逃げ場はない。

それでも、四年生、五年生と進んでいくうちに、その出来事もみんなの記憶から薄れつつあるように思えた。

  しかし、決して消えてはいなかった。
 五年生になったある日の放課後。珠算の競技会に向けての練習をしていた時だ。
 まわりで何人かがこそこそと内緒話を始める。誰も、私にだけは話しかけてくれない。
 そのうち、先生が入ってこられて、ざわざわしたようすをみて「どうしたんですか?」とみんなに問いかける。
 すると、アキ子さんと仲良しの女の子が「としこさんの隣に座っているときに、絵の具の筆が一本なくなったって話していたんです」というではないか。まるで私が盗ったと言わんばかりのことばに、その場で、しゃくりあげて泣いてしまった。
 珠算の担当の加藤先生は、父もよく知っている先生で、家にも遊びにきてくれたこともある。さすがに、どんなことばをかけてよいのか困ったようすで「みんなで仲良くしなさい」という簡単なひとことを言っただけだった。
 それからの私は、何をしても人に疑われてしまうのではないかと病的に怖くなった。自分が落としたポケットティシュさえ、本当に自分が落としたのかと自信が持てなくて拾えなくなった。
 それは、病的なほどの神経質さだった。

 三年生のときの十円玉事件以来、小学校生活は苦痛でしかなくなっていた。それでも、何とか通い続けることができたのは、幼ななじみの千代子さんが、いつもそばにいてくれたからだろう。
 家から小学校までは四キロメートルもあり、子どもの足では一時間もかかった。周りは山と田んぼばかり。帰り道は道草ざんまいだ。

 千代子さんと一緒に、春はシロツメクサで花の冠を作り、初夏にはオレンジ色の木イチゴを摘む。夏の暑くて喉が渇く日には、山からのきれいで冷たい湧水を飲む。笹の葉で作ったコップで……。
 秋にはランドセルを道の端に置いて、山に入って栗やアケビをとる。そうやって幼ななじみと一緒に、たっぷりと道草をして家に着くころには、元気がもどっていた。
 あの、自然の優しさに包んでもらった道草こそが、私にとってのセラピーであり、ずたずたになってしまった心を癒してくれていたのだと思う。


 幸いなことに中学校は、クラスの中でも私を含めて三人だけが、自宅からの距離の関係で、小学校のみんなとは別の中学校になった。
 今度は同じ過ちをしないように、どんなに小さな嘘もつくまいと心に決めて新しい環境へと入っていった。

 何の先入観も持たない新しい仲間との関係は快適だった。親しい友達もできた。
 「中学校生活は大丈夫だ」と思い始めていた矢先にそれはおこった。
 中学生になると部活の着替えなども加わり、荷物は格段に多くなる。教室の机周りに収まらない荷物は、廊下に貼られた名札の下のフックに掛けて置く。二十四人しかいなかった小学校に比べると、四十人近いクラスの、ズラリと並んだ荷物は圧巻だった。
廊下にかかっている色とりどりの荷物と、ひとりひとりの名前をしげしげと眺めていたその時だ。
 「どろぼう!どろぼう!」とクラスの三人の女の子たちが、声をそろえて私にむかって叫ぶ。三人の中の一人は、小学校のときのクラスの女の子のいとこだ。小学校のときの私の噂を聞いたのだろう。絶望的な気持ちになった私の目から、涙があふれてくる。
 そのときだ。

 「みんなで、なしてビン(敏子という名前のニックネーム)をいじめるんだ。ビンをいじめたら私が許さない!」とひとりの女の子が教室から飛び出してきた。
 クラスで一番小さな美穂子さんだ。そして果敢にも両手を広げて、いじめている大きな女の子たちから、私を守るように立ちふさがった。その迫力に負けたように三人の女の子たちは、すごすごとその場を離れてしまった。
 私はというと、泣くのも忘れ、あっけにとられてそのやりとりをながめていた。そのあと、大きな感動がじわじわと込み上げてきた。  
 本当の「勇気」というものを、初めて目の前で見せてもらった瞬間だった。美穂子さんとはそのあとも、一番の親友になった。


 たったひとりの友の力が、私に勇気を与えてくれた。
 小学校三年生のできごとから、五年もたってしまったけれど
 「今からでも謝って十円玉を返そう」
 そう決心した私は、今は別の中学に通うアキ子さんに手紙を書いた。「あのときは、アキ子さんの十円玉を、自分のものだといって受け取ってしまってごめんなさい。ずいぶん時間がたってしまいましたがお返しします」と、十円玉を入れて送った。
 長い間、心に刺さっていた棘を、やっと抜くことができた。
 数日後、思いがけず返事も届いた。
 「自分は小学校のときの、そんな出来事は忘れていました。わざわざありがとう」と。
 長い年月がかかってしまったが、やっと十円玉事件を乗り越えられた瞬間だ。
 子曰「過ちを改めざるこれを過ちという」

 美穂子さんのことは「ミッポ」とよび、あれから五十年近くたった今でも親友だ。
 毎年秋には、ご主人と丹精こめて作られたのであろう「あきたこまち」が届く。小学生の時の道草が私を元気にしてくれたように、友情米ともいえるこの新米が、大人になった私に、胃袋から踏ん張る力を与え続けてくれた。
 小児ガンで長男を亡くした年には「息子さんにも新米を食べさせてね」の短い手紙がはいっていた。まるで生前の息子に「食べさせてね」とさりげなく言っているかのように……。
 中学の頃と少しも変わらない直球の優しさだ。

長男は四歳の時に小児ガンのひとつである、脳腫瘍を発症した。
 それから、長い闘病生活の末に、三年前に旅立った。
 三十二歳だった。
 私が十円玉事件で辛いと思っていた十歳の頃。
 十歳の息子は、苦しい治療に耐えながら生きることに懸命だった。
 あの頃の自分に、そんな息子の姿をみせてあげたかった。
「生きる」ただ、そのことだけに命の限りを尽くさなければならなかった息子。そんな息子と共に生きている間に、大切なことを教わった。
 今、ここに「命」があることは、決して当たり前のことではない。
 「命さえあれば、なんとかなる」息子がくれた座右の銘だ。